はじめに
私は、1971年に医学部を卒業してすぐ、母校の岡山大学医学部産婦人科学教室に所属して産婦人科の研修を始めました。1979年に開業するまでに数ヶ所の総合病院に勤務し、本当に寝る間もなく基礎的な研修から、悪性腫瘍の治療まで学びました。また、「胎児低酸素症における糖代謝」という周産期学の研究で医学博士を授与されました。
当時は、第二次ベビーブームでしたので、お産にもたくさん立会い、異常出産の経験もいたしました。しかし、お産を本当に考え、生む女性の立場から見直すことになったのは開業してからでした。それまで、当時行われていた仰臥位分娩に、何ら疑問を感じたことはありませんでした。
そんな私に寄せられた妻の何気ない質問から、分娩の体位を考えるようになり、座位分娩台スペースメールが誕生いたしました。株式会社モリタ制作所で製造される座位分娩台スペースメールは、現在、販売台数が1000台を超え、日本のお産の形を着実に変えています。2001年にはLDR用の座位分娩台スペースメールが完成、発売いたしました。
しかし大学病院や助産師学校など教育期間では、今なお、従来の仰臥位分娩による分娩の教育が行われています。また、分娩体位の一つの方法として、座位分娩で書かれた産科の教科性はまだありません。座位分娩で書かれた産科の教科書が一日も早く登場することを願っているところです。
医学生や助産師学生用の教科書はさておき、じっさいにお産を取り扱っておられる産婦人科の先生や、これからお産をしようとしておられる妊婦さんに、座位分娩を理解していただくためのガイドブックがまず必要ではないかと考えました。
最近インターネットの普及は目覚ましく、私なども多くの医学情報を瞬時に手に入れたり、劇場のチケットや航空券の手配、仕事上や患者さんとのメールのやりとりに大いに利用しています。1999年、私は理事長を務めています「ペリネイト母と子の病院」もホームページを開きました。そこで、全部かけてから発表するのではなく、当院のホームページに書けたところから掲載させていただきました。書くのが遅く、稚拙な私でも何とか最後まで書き上げることができましたが、難しい専門用語を並べるのではなく、日ごろ妊産婦の方に、外来診療中や分娩入院中にお話をしているような雰囲気で、話を進めていけたのではないかと思っています。
今回、一応掲載を終了しましたので、訂正を加え、本として発行することになりました。つたない文章ではありますが、座位分娩台を作成した者の立場から、座位分娩の魅力、在分娩の優れた点を多くの方に知っていただき、在分娩の発展を願い書きましたので、多くの妊婦の方にお読みいただければ幸いと思います。
平成14年1月 著者 田淵和久
第1章 ヒトのお産:1.イヌのお産にあやかりたい
私の病院では、どこの病院にでも見られるような紙のカルテは、まったくありません。
診療は、すべて電子カルテを使っています。
医師は日本語で、症状、所見の記入、おくすりの処方箋、注射箋の発行、検査の指示などを、患者さんの目の前で、パソコンに入力します。
患者さんが納得された上ですべての診療が行われるようにしております。
もちろん要望があればカルテをお見せしたり、印刷してお渡しすることも可能です。最近厚生労働省も、そのような方針を打ち出したようです。
コンピューターの中には、薬の情報集、患者さん向けの説明資料、医学辞書など診療に必要なほとんどの資料が入っています。机の上にあるのは、液晶ディスプレーとキーボードと電話だけです。
電子カルテの中では、それぞれの妊婦さんの予定日をもとにした妊娠カレンダーをつくることができますので、健診の時に差し上げています。
そのカレンダー妊娠5ヶ月の欄には「犬の日」が、イラストで示されています。「犬の日」に着帯する週間hあ、いつから始まったのかよくわかってはいません。欧米では行われていないのを理由に、日本でも着帯は不要とする考えもあります。
しかし、暑い夏、薄着ですごす妊婦には、クーラーは冷えすぎています。一方、寒い冬、セントラルヒーティングの発達していない日本では、腹帯には妊婦のお腹を冷やさない効果があるのです。お腹を冷やすと、子宮が収縮することがわかっているので、狭い子宮の中で赤ちゃんは大変です。
また、私達医師や妊婦さんご本人がいくら努力しても、妊婦に伴う合併症が発症することもあれば、障害を持った赤ちゃんが産まれることもあ
ります。安産を願う気持ちはみんな同じですが、人間には、この運命をどうすることも出来ません。最終的には、神様にお願いするほかなさそうです。
日頃行くことのない神社にお参りして、イヌにあやかって安産であいますよう頭を垂れて祈り、着帯する風習は、宮中に限らず今でもなお大切にして良いのではないでしょうか。
なぜ安産の代表とされるイヌのお産は楽なのでしょうか。少し説明いたしましょう。
イヌのように、4本足で歩く哺乳動物を、四足(しそく)歩行動物と言います。2本足で歩くヒト以外の哺乳動物は、すべてこの四足歩行動物に分類されます。これらの動物は、野生で生活しているので、当然一人でお産をしなければなりません。
いったん始まると身動きができないお産の最中に、てきから襲われる危険性は非常に高くなります。そこで彼らはお産をなるべく短時間に済まさなければなりません。
ヒト以外の動物では、お産が楽に速やかに進むような仕組みが出来上がっているのですね。
第1章 ヒトのお産:2.サルのお産
私は学生の時、京都大学の今西錦司教授から文化人類学を学びました。先生は、「地球上に存在するすべての生物は、その周囲の環境に合わせて棲み分ける」という理論を講義されました。
当時、大変な感銘を受けた記憶があります。
いわゆる先進国が、今日のような少産少子化の時代を迎えるようになりますと、先生のお話が、人類への辛らつな警告であったのではないかと思っています。
先生の棲み分け理論で行きますと、日本では、お産が増えることは当分ないような予感がいたします。
また、人間に一番近いサルのお産の話も、今西先生から聞きました。最近、今西先生のお弟子で、京都大学霊長類研究所教授であり、また、産婦人科でもある大島先生が書かれた文章を目にしました。
大変よくまとめてありましたので、人間のお産を語る前に、その文章をお借りして、サルのお産をご紹介いたします。
【ニッポンザルのお産】
埼玉県長瀞公園で、2人のさいたま大学生が8mmカメラで撮影した記録。『通常動物は、的に襲われない夜間にお産を済ませてしまいますが、その時は、幸いなことに夕方から出産が始まった。1頭のメス猿が座り、両手を水平にあげて、体の上下運動を始めた。その動きは1~2分おきであった。手は交互に頻繁に出口部に持っていく。開口の具合や児の進行をチェックしているかに見える。出口部が膨らみ、それは、なんと赤ん坊ザルの顔面である。顔面位でも、猿には問題にならない。四足歩行の産道は真っ直ぐである。
手による、出口部のチェックが頻繁になる。やがて児の頭が出る。
母サルは、すばやく赤ん坊の首をつかんで、自分の前胸部に運ぶ、ねれた赤ん坊の体を、隅々までなめ回す。
なにかにとりつかれたように、その動きは激しい。
やがて、胎盤を引き出す。
西日はさらに傾き、周囲はなにごともなかったように、夜のとばりに閉ざされていく』
ここで、フィルムは終わるのである。
大島教授は、サルのお産の特徴として
①座産である。
②お産は夜中に終了する。
③母ザルは生まれた子をすぐ抱き、児ザルも母ザルの体毛をつかんでずり落ちることはない。
④生まれた児を必死になめまくる。
とまとめておられます。
人間のお産を説明する前に、ずいぶん長い前置きが続きましたが、少し記憶しておいてください。
第1章 ヒトのお産:3.ヒトのお産
私たちヒトの先祖である「クロマニヨン人」や「ネアンエデルタール人」も、このサルのように、独りで座ってお産をしていたのではないかと考えられます。
地球が、約50億年前にできたとき、最初に海ができました。海の中に住む生き物が次々に進化して、ついには、地上に住むようになりました。
その中で、もっとも進化した生物が、脊椎動物門哺乳綱霊長目ヒト科に分類される人間で学問的にはヒトと呼ばれます。辞典によれば、「脊椎動物門哺乳綱は、一般的に哺乳動物といいますが、哺乳動物は、血液が暖かく、肺によって呼吸します。基本的には胎生で、雌は、皮膚線の変化した乳腺から乳を分泌し仔を哺育します。皮膚には毛またはその喧嘩物があり、大脳は発達し複雑な行動をとる」とあります。
ですから、ヒトのお産も基本的には哺乳動物と同じと考えてよいのです。しかし、ヒトは、
①サルのような格好で座るお産はいたしません。
②通常1回のお産で産むのは一人です。
③お産は夜中だけとは限りません。
④産まれるとお母さんは抱っこしますが、短時間で、子供は自分のお母さんにさばっておくことはできません。
⑤生まれてすぐに歩けません。
⑥お母さんが赤ちゃんをなめることはありません。
など、他の動物とは違ったお産をします。またお産そのものも、サルのような座り方ですることは、実はそれほどたやすいことではないのです。
第1章 ヒトのお産:4.ヒトだけが2本足で立って歩く
サルとヒトのお産を比べる前に、ヒトの動物学的な特徴をますお話ししましょう。
脊椎動物門哺乳綱霊長目ヒト科に分類されるヒトは、「下肢で直立歩行し、上肢は手の機能を果たすようになり、地上生活を営み、道具を使用し、さらに大脳の著しい発達によって、言語、思考、理性の能力、また、文化的想像の能力を有するに至ったもの」と辞書にあります。
すなわち、直立歩行できることがその他の動物との大きな違いなのです。
生まれたばかりで歩けないヒトの赤ちゃんには、土踏まずがありません。ヒトに近いゴリラやサルも2本足で歩くことはできますが、土踏まずはなく、通常は前傾姿勢で四足歩行をしている動物です。
ヒトの赤ちゃんは、歩行を開始すると土踏まずが形成されてくるのも、ヒトが直立歩行する証拠の一つです。同じ霊長目に属するゴリラとヒトの姿勢を比較してみますと、ヒトは同一鉛直線状に頭蓋、脊柱、下肢が並んでいるのがよくわかります。
一本の棒の上に、頭が載っているのと同じですから、頭のバランスを保つのに大きな力を必要としません。頭を引き上げ、顔を前方に向かわせるための筋肉が少なくてすみます。
ヒトは、このようにして脳の重量が次第に増加し、知能を大いに発達させることが出来るようになったのです。一方、頭が脊椎の前方にある他の脊椎動物では、頭を引き上げ、顔を前に向けるためには、強力な筋肉が必要になってきます。しかし、筋肉の増強には限度がありますので、これら四足歩行動物は、頭蓋を大きくすることは出来ませんでした。
頭蓋が大きくなり脳が発達した恩恵で、人類は幸せになることができたのですが、お産をして、次の世代を育てなければならない女性には、大変苦痛を与える結果となってしましました。